sisosuseのブログ

日々感じたことを思い思いに書いていくブログです。

ジョジョリオン妄想─康穂の呪いについて─

 

前回の続きです。透龍とカレラが二重人格の関係にあるとすることで、カレラの不可解な言動を説明できるのかについて書いてきました。今回もその続きを書こうと思ったのですが、私のジョジョリオンに対する情熱が枯れてしまったので、「カレラ=透龍」説を残したまま「ジョジョリオン」全体への考察に路線変更しました。結論からいって、カレラの行動についてはほとんど説明を諦めました。

 

前回の記事

sisosuse.hatenablog.com

 

これまでの整理

便利のために前回の記事で書いたことを整理します。

透龍とカレラの関係性についての仮説と両者の行動目的

透龍が表に出ているときにカレラが人格の出し入れをコントロールできてはならない

2)透龍もカレラも自身の意思を明確にもっている

3)カレラが表に出ているときに透龍が人格の出し入れをコントロールできてはならない

4)透龍がカレラとコミュニケーションでき、カレラに命令、少なくともお願いできる立場になくてはならない

 

透龍の目的:ロカカカを手に入れる

カレラの目的:せっちゃん(定助)と親密になる

 

カレラの行動説明

ロカカカを手に入れ、せっちゃんに気に入られるように行動(A)。札幌に行っていたというのは、吉良vsダモガンから音信不通になった後のことを調べ、せっちゃんに接近しようとしていた期間のことを隠すための方便(C)。せっちゃんを見つけて合図を送ったが、わからない様子の定助を見て、擬態をするタイプの敵スタンドと判断し、その場を離れた(B)。しかし勘違いとわかり、ロカカカを入手しせっちゃんとの仲を深めるためにロカカカビジネスへの参加に意欲を見せた(N)。

 

残る疑問

・カレラと密売人グループの関係

なぜ命を狙われているのか(E)、なぜ兄弟に追われているのか(F)、なぜ吉良が死んだら吉良のマンションに行けないのか(I)、なぜ吉良が死んだと聞いて慄いたのか(J)、なぜ吉良が殺されたと思ったのか(K)

 

・過去編との辻褄

なぜあの写真を持っているのか(D)、なぜロカカカ等の話を知っているのか(G)、なぜロカカカを処分したと発言したのか(H)、他人同士を交換させるのは新ロカカカではないのか(L)、クソッタレ世の中から抜け出す発言の真意は何か(M)

 

良い解決とはどのようなものか

 さて、ここまで妄想を進めてきましたが、妄想が語るストーリーは無限と言っていいほどに多様であり得ます。私はカレラ=透龍説を提唱しましたが、実はカレラ=一巡後にスタンドを手に入れたカーズであり、真のスタンド能力は全人類の行動を操作することである、などといってもいいわけです。しかしこれは明らかにナンセンスですね。ではセンスのある説とセンスのない説を区別する基準はどこにあるのでしょうか。

 

 良さを決定する基準は妄想者の目的に求められるべきでしょう。私は「もしも〜だったらな」と純粋に妄想を楽しむタイプの同人誌的な妄想をしたいわけではありません。妄想といっても仮説提示・考察・解釈といったタイプのものであり、正直にいって筋の統一性という観点から崩壊していると言わざるを得ない、しかしどこか魅力的な「ジョジョリオン」という作品をいかに一貫した物語として(失礼な言い方ですが)復活させられるかに興味があります。したがって、私が良い妄想と判断する基準は以下のようにまとめられると思います。

 

1)無矛盾基準

 

 作中の内容と矛盾しないことを言っています。当然の基準でしょう。

 

2)仮定の根拠の強さ基準

 

 しかし1)だけでは「作品の内容」とはいかなるものか、判断が分かれるかと思います。というのも、作品の語り自体がミスリーディングであるとすれば、理屈上どの内容も嘘であるということができ、自分の納得のいかないところだけを虚偽と見なすことができてしまいます。これでは事実上「なんでもあり」な状況を改善できません。したがって、何らかの納得できるような根拠を課すことにします。これが2)の意味です。

 

3)説明可能範囲の広さ基準

 

 作品を点の集合(とそれらをつなげた筋)、仮説を線だとして、仮説がどれだけ作品の点を通過できるか、といえばイメージがつくでしょうか。どれだけたくさんの内容・疑問を解決できるかの指針となります。

 

4)オッカムの剃刀基準

 

 なるべく少ない仮定を用いて説明する、といった意味の有名な基準ですね。なるべくエレガントに解決したいということを表現するために用いています。

 

解答

 この基準に照らして高得点を得られると思う、私の「ジョジョリオン」解釈はこんな具合です。

 

 康穂のスタンド能力<ペイズリー・パーク>の真の能力は厄災の対極たる「祝福を操作する」能力である。被祝福対象は第一に康穂自身であり、幼少期の父親の不在を契機としてあたたかな家族をもつことを目的すなわち祝福そのものとする。この祝福は父親の不在への潜在的恐怖という呪いから解放されることによってなされるのであり、解放は1)欠損者の死、2)欠損者の回復、3)家族の再生という体験を4)確認・追体験・物語化することによってなされる。

 そして1)、2)、3)の体験を運命的に背負い、康穂の前で演じきったのが透龍、定助、東方家である。母親の不在に苦しみ、母親の獲得に失敗した透龍は死に、対する定助は母親の庇護を受け自己肯定的充足を得ることに成功する。運命的に崩壊状態にあった東方家は一つにまとまることができた。<ペイズリー・パーク>はこのような状況を導き、康穂は彼らに投影同一化・「ジョジョリオン」として語ることで祝福を得たのだった。

 他方、康穂の祝福は他の祝福を手段とする。定助、東方家、そして透龍は第二の被祝福対象でもあった。ただし透龍は事情が複雑である。透龍は康穂と破局した衝撃で自己が分裂しカレラという人格が生まれることになった。カレラは透龍にとっての康穂である。透龍は康穂になりきることで、康穂を理解しようとした。せっちゃんを愛した。しかし吉良に利用されてしまう。決して解くことのできない謎に直面することを強いられ衰弱する透龍にとって唯一の希望はロカカカだった。しかし本当はロカカカでも解決できないことに内心気づいていた。最後、死をもってこの苦悩から解放され、無知の不可知を脱却した。

 祝福の操作は運命の操作であるが、運命は人間意思に選択の自由を残してくれる。学校に行く・いかない、スタジアムに行く・いかない、意味深な新聞記事(宝石の赤ちゃん)を調査する・調査しないなど作中に明記された選択肢は<ペイズリー・パーク>の発現を示している。

 

 1)、2)、3)の説明は過去の記事を参照していただくとして、全て<ペイズリー・パーク>が裏で糸を引いていた、というのが大まかな流れです。確かに最初に挙げた例のように「カレラ=カーズが人類を操作している」レベルの強い条件ではあります。しかしジョジョはぶっ壊れ能力が度々登場していて、透龍も然りです。前述した通り、許される仮説と許されない仮説の区別は、それを示唆する根拠がしっかりしているかに求められます。

 

 根拠は下のようなものです。a)作中で示唆される<ペイズリー・パーク>の能力が人を良い方向へ導くといったもので、「祝福の操作」とはその能力が長期的に働いた場合をいうと説明できる。b)康穂の家庭環境があまりよろしくないことが作中で描写されている。c)康穂がナレーションというメタ的な視点を務めている。d)透龍との対立が示唆されている。e)ジョジョのテーマが人間讃歌であり運命を背負いつつもそれに流されない人間像を描いている。

 

 なお、この説は精神分析学チックですが、私はその分野に特別詳しいわけではありません。

 

おわりに

 冒頭に前置きした通り、以上の説明はカレラの不可解な行動の説明になっていません。唯一あるとすれば、(M):クソッタレ世の中から抜け出す発言の真意について、無知の不可知にもがく透龍の本音と解釈できるというくらいです。しかし、今回の考察でカレラ・透龍・康穂・定助の関係が色濃いものとなり、スタジアムに行くかなどの回収されなかった方向性を一応説明できた他、ジョジョリオンのテーマである「呪い」と「呪いからの解放」の意味をより明確にできたのではと思います。

 

 とはいえ謎は謎のままです。カレラが残していったものだけでなく、回想での謎の男、ダイヤの足が爆発した件や東方家の最初のラスボス感、ロカカカのかけらを食べた犬の物語上の存在意義、夜露発言の矛盾などいろいろありますね。私自身は瑣末な問題だと思いますが、日付や年齢の計算が合わなかったりもするようです。また壁の目や岩人間、ロカカカ等のキーワードが未だ充分に説明されていません。個人的には虹村などの犠牲者が出たことやホリーさんの病気が治らなかったことの意義についても気になっています。

 

 これらのうちいくつかは旧約・新約聖書を参照したり、東日本大震災を重ね合わせたりすることで解決できるかもしれません。あるいは等価交換というキーワードも有用かもしれません。しかしとりあえず「魅力的な世界観と何枚かの奇抜かつ美しい絵と、いくつかの熱い心理戦は良いが、破綻したストーリーと物語進行をセリフに任せっきりな展開と、お世辞にも上手いとはいえない動き描写が良くない」作品とジョジョリオンを評価して、9部を楽しみに待ちたいと思います(もうすぐですね)。

 

過去の記事

 

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ジョジョリオン妄想─カレラ=透龍─

 

前回の続きです。前回、カレラと透龍は二重人格説という突拍子もない説を提唱してみたのですが、もしそうだとすると、カレラの不可解な言動を透龍の命令による暗躍として説明できるのではないかといった妄想の続きを書いてみます。

 

前回の記事

 

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ちょっと前置き

もし透龍とカレラが同一人物でなくても、二人が親密な間柄であれば私の従来の目的は達成します。つまりカレラを挟んだ透龍と定助(ジョセフミもしくは吉影)や、透龍を挟んだ康穂とカレラの関係が見えればいいのです。でも作中でそうしたことが一切描かれていない、そしてエイフェックス弟とプアートムのやや不可解な死亡描写が似ているということで、同一人物だと考えました。さらにディアボロを彷彿させることと東方家のスタンド名が「キング」なのと合わせて、妄想が広がるのでそっちの方が魅力的です。

 

最悪、密売人グループの裏切り者説、カレラはTG病院グループ説、透龍はカレラのボーイフレンド説などに変えても大丈夫です。四角関係、三角関係で4人を結べれば。今回は前述の通り二重人格説にのっとって、カレラの行動の説明を試みます。

 

透龍=カレラ説のおまけのメリット

二重人格としたことのメリットでまず挙げられることは、この説の発想源でもありますが、プアートムの死因を説明できる点です。

 

プアートムは後方からの狙撃のような衝撃によって顎が砕かれ、死亡しました。これは羽先生の能力での説明もできなくはないですが、若干無理があるでしょう。弾丸並みのに目にもとまらぬ速さで、プアートムの後方から礫を飛ばすといったことを羽先生はできるでしょうか、、、できなくはないように思いますが、それなら康穂との戦いで披露しなかったのは不思議です。ワンダー・オブ・ユーも、まず院長を追わせないといけないですが、救急車に枝を届けることが追跡認定されるのかは怪しいところでしょう。

 

それよりは新しいスタンド能力を想定した方がスッキリするのではないでしょうか。ラブラブデラックスの射程は半径80メートルとあります。80メートルまでスタンドヴィジョンを出せるというふうに解釈すれば、プアートムの後方、定助の死角から髪の毛針のような射撃をした、と考えることができます。敵に手の内は見せたくないもの。この攻撃方法をとるのもおかしくはないと思います。

 

また繰り返し書いている通り、定助と透龍の関係が深まることも大きなメリットです。このままでは若干、主人公とラスボスの因縁が他の部よりも薄いと思います。それも一興かもしれませんが。でも、「康穂─定助─カレラ=透龍─康穂」と三角関係で綺麗に結ばれて、実はジョセフミと吉影の頃から繋がりがあったとした方が、よりふさわしくなるような気がしませんか。さらに前回の記事の最後でも書きましたが、透龍=カレラとすることで、透龍の死が二つの関係の終息として解釈でき、46話冒頭の説明により重要な意味を持たせることができます。

 

本題:二重人格について

この記事の本題に入ります。「透龍=カレラ」とすれば、カレラの不可解な言動を説明できるようになるのでしょうか。もし可能ならこの仮説は非常に魅力的なものになるでしょう。これを検討するために、まず二重人格がどういったものかもう少し詳しく決めておきましょう。その後で、カレラの不可解な言動を整理していきます。

 

二重人格と一口にいってもいろいろタイプがあると思います。身体的特徴の変化や性別の変化などもそうです。やはり二重人格といえば5部ラスボス、ディアボロですね。彼はドッピオとボスの二つの人格を持っていて、ボスに人格が変わると筋骨隆々となり、顔の骨格も大きく変化します。性別は変わりませんが、スタンド「キング・クリムゾン」を自在に操れるようになり、ラスボスにふさわしいパワーを発揮しますね。

 

そしてディアボロの二重人格で注目すべきは、ボスの人格が「主」で、ドッピオの人格が「従」の関係にあることです。ボスは自分が二重人格者だと知っていて、基本的に人格の出し入れをコントロールできます。他方ドッピオは自分とボスとは別の存在だと考えており、ボスがかけてくる電話を介してボスの命令に従う受身の人格と言えるでしょう。もちろんドッピオが主体的に行動することもありますが、やはり人格を変えるスイッチはボスの手にあります。

 

また、ドッピオが感覚した物事をボスは知っているのに対し、ボスが行動している時、ドッピオは不干渉です。記憶についてもやはり、ドッピオの時の記憶をボスは知っていて、ボスの記憶をドッピオは知らない不釣り合いな関係です。

 

では、透龍とカレラはどのような関係にあるのでしょうか。まずボス戦でカレラが表に出ていないことから、1透龍が表に出ているときにカレラが人格の出し入れをコントロールできてはならない、はずです。

 

ぎゃくに、カレラが体を操作している時に透龍が出てくることはできるでしょうか。カレラも芯の強い人です。犯罪では、と思うようなことも平気でしてしまう人ですし、後に述べるようにカレラの行動原理である「せっちゃんが好き」は揺るがないもののようです。このことを考慮して、2)透龍もカレラも自身の意思を明確にもっている。3)カレラが表に出ているときに透龍が人格の出し入れをコントロールできてはならない。としておきます。

 

しかし今は、カレラの行動のいくつかは透龍の意思を汲んだものであるという形でカレラの不可解な行動を説明したいのでした。したがって、4)透龍がカレラとコミュニケーションでき、カレラに命令、少なくともお願いできる立場になくてはならない。

 

とりあえずこんな感じで設定しておきます。辻褄が合わなくなったらいじると思いますが。

 

本題:カレラの不可解な言動について

さて、作中でのカレラの言動に対する主な疑問は、

 

カレラが定助に接触した目的はなんだったのか(A)、「焦りすぎた」の真意は何か(B)、札幌から杜王町まで戻ってきたのはなぜか(C)、なぜあの写真を持っているのか(D)、なぜ命を狙われているのか(E)、なぜ兄弟に追われているのか(F)、なぜロカカカ等の話を知っているのか(G)、なぜロカカカを処分したと発言したのか(H)、なぜ吉良が死んだら吉良のマンションに行けないのか(I)、なぜ吉良が死んだと聞いて慄いたのか(J)、なぜ吉良が殺されたと思ったのか(K)、他人同士を交換させるのは新ロカカカではないのか(L)、クソッタレ世の中から抜け出す発言の真意は何か(M)、

 

などでしょうか。最後にロカカカ商売に一枚噛ませろといって再会を匂わせつつ、結局再登場はありませんでした(N)。

 

「カレラ=透龍」とすることで、カレラのこうした言動に透龍の意思が介入していた可能性を考えることができます。それによって、カレラの不可解さを紐解こうというわけです。そのために、どの行動がカレラの意思によるもので、どれが透龍の命令(お願い)によるものかを分けてみます。まず2人の目的をはっきりさせておきましょう。

 

まずカレラとしては「せっちゃんが好き」ということが第一にあると思います。節々でこうした発言をしますし、「これは本当」だと念を押しています。カレラの意思としては、せっちゃん(定助)に接近する、好きになってもらうことです(はっきりきらいといわれてしまいましたが)。

 

他方、透龍としては「ロカカカを手に入れる」ことがあります。カレラに協力してもらってロカカカを手に入れようとしているのではないでしょうか。

 

とすると、ロカカカを手に入れ、せっちゃんに気に入られるように行動しているはず(A)。札幌に行っていたというのは、吉良vsダモガンから音信不通になった後のことを調べ、せっちゃんに接近しようとしていた期間のことを隠すための方便(C)。せっちゃんを見つけて合図を送ったが、わからない様子の定助を見て、擬態をするタイプの敵スタンドと判断し、その場を離れた(B)。しかし勘違いとわかり、ロカカカを入手しせっちゃんとの仲を深めるためにロカカカビジネスへの参加に意欲を見せた(N)。

 

残っている問題は、カレラと密売人グループの関係(E, F, I, J, K)、過去編との辻褄(D, G, H, L, M)ですね。それとカレラ=透龍としたことで矛盾が生じないのかということも懸念点です。少し長くなったので、ここできります。

 

 

ジョジョリオン妄想─透龍:康穂:定助:カレラ ─

 

ジョジョランズ(仮)、まだですかね。一月には始まるのではないかみたいな予想を見ましたが、まだ始まりません。正直、色々やらかしたと言わざるを得ないジョジョリオン。その反省を活かして、なんて烏滸がましい事は言えませんが、なるべく矛盾の少ない、そしてかつてのジョジョが持っていた熱いストーリーと勢いのある絵を望んでいたりします(絵に関しては画風の変化なのでしょうが、5部や6部の頃の絵が好みです)。世間の熱は若干冷めたのかも知れませんが、そんなジョジョリオンの、とりわけ多くの謎を残していった「作並カレラ」についての妄想を書いてみます。

 

さて、定助と透龍は康穂を軸とした対立関係にあるといえます。康穂の今カレと元カレという関係です。もちろん「主人公」と「ラスボス」、相対する関係にあります。定助のGo Beyondが康穂のペイズリーパークを通じて、透龍にクリーンヒットしたように、定助と透龍の関係は康穂なしには語れません。

 

11巻にてそんな康穂とバトンタッチするかのように初登場した作並カレラ。定助の中の吉良ではないほう(ジョセフミ)と以前親密にしていたふうを匂わせています。実際に親密だったかはご存知の通り重大な矛盾点と指摘できますが、ここではあえて目をつむり、定助・康穂・カレラの関係に焦点を置きましょう。すると先ほど示しました定助・康穂・透龍の関係と類似していることがわかります。つまり元カノ・今カノとして定助を軸にした対立関係にカレラと康穂を配置できます。

 

康穂とカレラは多くの点で逆接的です。11巻は愛唱戦後から始まりますがその冒頭、康穂は愛唱の死に動揺するつるぎに「全ては良い方向へ向かわなくてはいけない」と話します。対してカレラは吉良が死んだと聞いて「状況はヤバイ方向へ動いている」と発言。プラス・マイナス関係が見て取れます。そして何より定助はカレラが苦手であり、康穂に好意を抱いています。

 

こうして

 

透龍:康穂:定助

   康穂:定助(ジョセフミ):カレラ

 

という関係が見えてくると、カレラと透龍のつながりはあるのかと考えてしまいます。つまりカレラを軸とした定助(ジョセフミもしくは吉影)と透龍の対立関係や、透龍を軸とした康穂とカレラの対立関係を読み込むことができるのでしょうか。残念なことに透龍とカレラの関係は全く描かれていません。

 

と、ここでこの記事の本題に入りますが、私は「透龍とカレラは同一人物である」と考えます。突拍子のないことだと思われるかもしれません。しかしもしそうであれば、定助、康穂、透龍、カレラをそれぞれ頂点とした正方形から透龍とカレラを結ぶ一辺を消したような不釣り合いな関係ではなく、定助─康穂─透龍(=カレラ)の綺麗な正三角形ができるんです。

 

同一人物というのは、二人は二重人格の関係にあるということを意味しています。5部ラスボスであるディアボロのような感じです。

 

発想元はエイフェックス兄弟の死とプアートムの死の類似性にあります。エイフェックス弟の死亡描写がちょっとおかしいんです。何かにぶつかってやられたような、勢い描写で頭部が破壊されています。カレラに燃やされた兄の左腕が当たったともとれますが、微妙なところです。毒ガスでやられた可能性もあります。定助は弟が毒ガスを制御できているのは、ボールテクニックか抗体を持っているのかどちらかだろうと推測していました。確かに前者だった場合は毒ガスでやられたのかも知れません。が、後者の場合は毒ガスではやられないはず。何かしらの頭部への攻撃によって死亡した可能性があります。

 

このエイフェックス弟の死亡描写、誰かのやられ方に似ていると思いませんか。そう、プアートムです。救急車まで走って逃げている時、後ろから受けた何らかの衝撃で顎から砕けて死亡したプアートム。救急車には二人乗っていて、一人は羽先生で確定してます。が、もう一人は明確に示されませんでした。もう一人は透龍だとするのが自然ですが、もしかすると透龍は透龍でも、カレラの姿で乗っていたのかもしれません。エイフェックス弟とプアートム、どちらも何かしらの物理的な攻撃でカレラが殺害した、と考えられませんか。

 

スタンド能力が違うじゃないかと思われるかも知れません。カレラのスタンド<ラブラブデラックス>は髪の毛を生やす能力でした。しかしその応用として、「髪の毛を針状にして発射する」といった、某妖怪のようなことができてもおかしくないと思います。針状でしかも超高速・視認できないレベルで発射でき、銃弾並みの破壊力を持つ髪の毛です。エイフェックス弟もプアートムも定助に見られている状況でカレラに暗殺されたのではと考えます。

 

透龍=カレラ説はカレラが岩人間であることを含意していますが、だとすると46話冒頭の説明が重要な伏線であることがわかります。46話冒頭では岩人間と人間の恋愛関係は97.5%で破局し、関係は殺害に終わるとありました。そう、透龍と定助の決戦は、康穂と透龍の関係が定助(と康穂)による透龍の殺害に終わった瞬間であると同時に、定助(ジョセフミ)とカレラの関係の殺害による終息でもあったのです。

 

そんなわけで、透龍=カレラ二重人格説(髪型がモジャモジャなあたり若干似ている???)なんてことを考えてみました。とはいえ万が一当たっていたとしても結局語られず終いで、永遠に「ヒ・ミ・ツっ」になってしまったようです。再登場してほしかったような、傷口が広がるだけのような、、

 

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「サナギ」から「蝶」へ─ミニマリストについて3─

 

ミニマリストの話は前回で終わりにしようと思っていたのですが、どうも釈然としないので、もう少し書いてみます。

 

ミニマリストは大きな目標を掲げます。将来を一切憂慮せず、代わりに今この瞬間を楽しみ尽くすという目標です。生まれながらにして将来を憂慮しない「天才型」はあまりいらっしゃらないのでしょう。なんらかの経験がその思想に目覚めさせる、あるいはどこかから輸入されて教化される。そのため、ミニマリストになる以前に所持していた将来への投資を廃棄する過程をほぼ必ず経るようです。ミニマリズムに目覚めるとまず断捨離が行われます。

 

断捨離をする中で、「手段の目的化」がミニマリスト界隈で問題となるようです。今を楽しむことができるようになるために、断捨離をしているのに、断捨離をしている瞬間が楽しくなってしまうようです。その結果必要以上にものを捨ててしまい、今を楽しむことができる状態から離れてしまうということになってしまいます。

 

「手段の目的化」を回避して断捨離を終えたミニマリストはついに、「真のミニマリスト」としてその人生を謳歌することができるようになるわけですね。

 

見てみるにミニマリストを名乗っていられる方々は、「真のミニマリスト」ではない方が多いようです。まだ断捨離をする段階にいるわけですから。いわばサナギのような状態ということです。一方で「真のミニマリスト」の方々もいらっしゃいます。そこまでいくと、その日友人に誘われた夕食を最後の晩餐と捉えるようになるようです。サナギから蝶へ。というよりむしろ「仙人」ですね。

 

思うに「サナギ」の状態と「蝶」の状態は区別したほうがいいように思います。「蝶」は断捨離の罠をもくぐり抜け、今この瞬間を楽しむ段階にあります。対して「サナギ」はまだ断捨離をしている段階であり、今を楽しむことができるようになるという目標に邁進している最中です。手段の目的化を避けるためにも、「サナギ」と「蝶」のように序列関係が明確な表現があるとわかりやすいのかなと思います。

 

ミニマリストには色々他にも種類がありそうです。また少し調べてから続きを書こうと思います。

 

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今を生きる─ミニマリストについて2─

前回の記事でミニマリストについて思うことを書いてみましたが、どうやら無知を晒してしまったようです。その後調べてみると、どうやら2013年ごろから日本で注目されている模様。そしてブームは過ぎ去ったとか、、。と言っても今でもネット記事でよく見かけますし、それ関連の本もちょくちょく出版されているようです。

 

もう一つ、決定的な勘違いをしていました。minimalist's microcosm という方の記事を引用します。ミニマリストになって何がしたいのかという質問に対して、このように答えています。

 

目的はありません。ただ、今この瞬間を、心地よく生きたいと思っています。そのためには、モノを捨てることも厭いません。

 

前回、最小限のもので暮らすというが、何にとって最小限なのかが難しいということを書きました。その時は将来のことを据えた上での「最小限」を前提としていて、未来を知ることはできないことから「最小限」の規定は困難だとも言いました。しかし違ったのです。自分は根本から間違っていました。ミニマリストは今を生きているのです。将来ではなくこの瞬間を。

 

今を心地よく生きたいから、ものを捨てるということです。将来を見越して多様な可能性を確保しておこうなどとは最初から考えていないのです。この瞬間を楽しく生きていければいいのですから。今を生きる人にとってモノは足枷でしかありません。将来のためにとっておく、そのためにコストを支払うというのは、今を楽しむためには不要であり、デメリットの方が大きい(蓄財自体が楽しみと考えるミニマリストは別ですが)。保険に入る金があるのならランチを贅沢にし、家を借りる金があるのなら旅に出て一期一会を楽しむ。服を管理する暇があるならその分眠り、定職について将来の安心感を得るのではなくパートで働いて趣味に時間を割く。未来にとらわれない生き方、それがミニマリズムという訳です。

 

ともすれば私たちは将来を案じて節約したり、もしもの時にも対応できるように備えたりしてしまいます。変化の激しい時代、それも平均寿命が伸びてより長く生きられるようになって、なおさら老後が心配になってきます。そんな中にあって、人間死ぬ時は死ぬものだとでもいうように、飄々と人生を謳歌する。

 

ミニマリズムという考えは「どのように生きるべきか」という人生論の一つということですね。それは独自の死生観を含む、ある意味で宗教的な主張だと言えそうです。

 

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「最小限」ってなんだろう─ミニマリストについて─

ミニマリスト。最近話題ですよね、多分。最小限のもので暮らす人のことを言うそうです。確かに家を見渡してみれば、いらないものがたくさんあるような気がします。しばらく着ていない服、一度しか使ったことがない調理器具や調味料、もったいないから取っておいたが一向に消費しない付録類、何かを入れるかもしれないと思って捨てていないちょっときれいな箱などなど。

 

「いらないもの」を探していると、「最小限のもの=いるもの」ってなんだろうと思ってきます。人はものを食べないと生きていけないので、食糧は必要ですよね。と言ってもスナックやちょっとお高い調味料はどうしても必要というわけではないような気がします。いや、それをいうからには砂糖や蜂蜜もいらないのでは?他の炭水化物で十分なエネルギーは得られるでしょう。そもそも人間、狩猟採集生活していた時は白いお米なんて食べられなかったでしょうし、お肉も貴重なものだったと思います。人類史のほとんどが狩猟採集生活。その中でも強く生き延び、種を存続させてきた訳ですから、我々、栄養失調には強いはず。実際三日三晩飲まず食わずでもなんとか生きることはできます。

 

と、そもそも何にとって「最小限のもの」なのでしょう。生きるため?だとすれば何歳まで?それとも人生を楽しむためでしょうか?だとするとゲームが人生の楽しみだというミニマリストにとって、ゲームが終わるまでの期間以上の食べ物は不要ですね、、ゲームとそれをクリアするまでの時間とその時間生きるための食糧があればいいわけです。ミニマリストになるには、まず自分にとって人生とは何かという難題に立ち向かう必要がありそうです。

 

さて、ここでは無難に75歳くらいまで元気に生きることが目標ということにしましょう、、と話を前に進めた途端、また訳がわからなくなってしまいます。どうすれば「最小限」になるのかがわからないのです。未来のことはわからないのですから。50歳で癌になるが、克服して、しかし66歳で再発。それでも近未来の最新医療で完治する。しかし不幸にも交通事故で73歳にして惜しくもこの世を去る。などとわかっているのなら「覚悟」を決めることができますが、あいにくこの世界はまだ一巡目です。病気に備ええて保険に入ることは必要なのか、1日に炭水化物をどれくらい摂取すればいいのか、今のところ必要ない衣服や調味料が本当に必要ないのか。不確実なことへの対処法の一つとして多様性を確保することが挙げられますが、多様性を確保することは将来のために必要なのか、そうだとすればどの程度確保すれば良いのか。途端に一度使ったきりの調味料が財宝に見えてきました。

 

まあ、現実的にはなんとなく今、現段階で不要なものは捨てて、もし必要になったら買い直す、ということになるのでしょう。ただ、持っておくことのコストがさしてかからないのであれば、別のところに整理整頓してとっておくというのが、多様性の確保という点で無難な選択のような気はします。

、、、ミニマリスト、「最小限者」というのはどうやら誤解を招く言葉のようです。最小限の生き方なんてものは将来を知っていないとできないのですから。信念と矛盾した生き方をする人という響きさえ感じ取れてしまいます。レシスト(lessist)、「少なめの者」が正しいような気がします。

 

次の記事

 

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ジョジョリオン感想─透龍の呪いについて─

 

思い返してみれば、岩人間の目的とはなんだったのでしょう。アーバンゲリラや羽伴毅がそれっぽいことを匂わせていましたが、漠然としていてグループをまとめる旗印としては弱いように感じます。そもそも岩人間はあまり群れないとされていて、仲間意識が低い個体が多いようです。実際、ドロミテは神社で静かに暮らしていました。とするとロカカカを欲していることは同じでも、岩人間たちの最終的な目標はそれぞれ違ったのかもしれません。例えばロカカカで世界を牛耳るといったこと以外にも、大金を稼ぐ、自分が不死となるなどなど。

 

では透流君の目的はなんだったのでしょうか。透龍君は新ロカカカを追って定助たちと対峙します。また27巻の過去編ではこっそりと東方家の敷地でロカカカを栽培していたようです。やはりロカカカを使用して何かをなそうとしていたのでしょう。しかしそれと同時に、恋愛にもご執心なようです。康穂に復縁を求めたり、定助を恋敵のように扱ったりしていましたね。このように作中ではリーダーとしての面よりも、恋する(岩)男としての面が強調されていたように思います。

 

思えば、岩人間は群れない習性をしていますが、恋愛は人間並にするようです。愛唱しかり、ドロミテしかり。ただあくまでも利己的な岩人間の考え方に基づいたものです。相手を想うのだけれど、それよりも強く自身の利益を考えてしまう。それが岩人間と人間との違いであり、人間と岩人間との恋愛が決して成就しない理由なのではないのでしょうか。それでも人の温もりを求めずにはいられない、岩人間はそういう悲しいさだめを背負った生物なのかもしれません。

 

こうして見ていくと、透龍君の目的は心に空いた穴を埋めることだったように思えてきます。いや、大抵の目的はそれだろうと思われるかもしれません。ここで私が言いたいのは、透龍の目的は実は具体的ではなかった、ということです。先ほど岩人間たちの目的が漠然としていると言いましたが、まさにその通りだったのです。透龍君はじめ岩人間たちは何か漠然と欠けているものを感じていて、それを満たすことこそが目的であり、そのためにロカカカを使ったビジネスを選択したと考えられるのです。

 

しかし、なかなか心は満たされない。それもそのはず、心の穴は金では埋められないからです。透龍君がそのことに気づいたのは最後の最後でした。岩には想い出が存在しないという透龍君でしたが、最期に蜂の幻覚を見たことで初めて、透龍君は自らの求めていたものがわかりました。

 

蜂の意味するものは岩人間の生態から解釈できます。岩人間はごく小さな体で生まれ、蜂が攻撃してくる時を待ちます。そして蜂が近づくとそれにしがみつき、蜂の巣に住み着くと、蜂が運んでくる養分で成長するという生態をしています。

 

我々人間は母親からお乳をもらって成長します。ですがそれだけではありませんね。我々は栄養とともに愛情を受けて育ち、それらをひっくるめて子供は自然と親に愛と感謝の念を抱くわけです。対して岩人間が得るのは無機質な養分だけ。そこに愛情はありません。

 

ただ、岩人間も本能のまま動く昆虫とも違います。彼らは、少なくとも透龍君は、たとえ僅かであっても蜂に、育ててくれたものに感謝の念を抱いているのです。透龍君が見た蜂の幻はそうした感謝であり、想い出であり、つながりの記憶だったのです。それは決して利己的な行動では手に入れることができないし、金で買えるものでもない。利己的に生きてしまうさだめを背負った岩人間には到達し難い境地、透龍君は死に際にそれを悟ります。

 

さだめによって心の一部を奪われた岩人間、悲しい運命の下であってもそれを取り戻そうと懸命に逆らい続ける彼らにとって、ロカカカは無限の可能性を秘めているように写ったに違いありません。ただそれは間違っていた、、最後にそれに気づいた透龍君はどう感じたのではないでしょうか、、、ただ一つ言えるのは透龍君は最後の最後でそれに気づけたという点で他の岩人間と一線を画しているということです。

 

「全ての呪いが解けるとき」、透龍君の死に際もまた彼の呪いが解けた瞬間だったのではないでしょうか。そこにはホリーの示す愛でもって「呪い」が解けた定助と、蜂の幻が象徴する愛の不在でもって「呪い」が解けた透龍という対比も見てとれます。

 

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豊かさのために欲しいものは「欲しい」…それを狙っている。「食べ物」とか…「権力」とか…「名誉」とか……「愛」とか…

38話、岩人間の生態について話したつるぎのセリフです。最後の「愛」の部分が強調されています。このセリフを通して荒木先生は、今回の敵は今までとは一味違うということを暗示していたのかもしれません。

…(ジョジョリオンは登場人物による解説が露骨すぎると感じますが)

 

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